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悲劇鑑賞会

- The aestethic sense of tragedy -

あの2011年3月11日に日本で起こった東日本大震災は

私にとって非常に大きなショックとして鮮明に頭の記憶に残っている。

事が大きすぎたために、あの出来事はあって無かったかのように
感じている人もいるのではないだろうか。​​​​​​​​​

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私はあの3月11日から続いている何ともいえない違和感を日々感じている。
それは、日々横行する聞き慣れないコトバの数々を突きつけられ、
意味もわからぬままただ惰性的に情報を受け入れていること。
そして、マスコミの流す情報を鵜呑みにしている自分と
疑うことを忘れている自分自身の存在にである。​​
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ヨウ素138。セシウム134。セシウム137。ストロンチウム90。
シーベルト。ベクレル。グレイ。​​
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私は日本に住んでいる日本人であり、日本で生きている人間である。
それはまぎれもない事実であることは言うまでもない。​​
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自分が何が大切で、自分にとって大切な情報を自分の力でとっていこう
とする姿勢が次々ととられていってしまっている今の時代に
私が提示しておきたい事をこの画面に表現したつもりであ​る。​​​
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この画面の中では”悲劇”という劇が
披露されており、
牛のかぶりものを被った人間が現実の中で生活を過ごしているのである。​​​
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牛は3月11日の震災以降、人間の手によって一頭ずつ銃で殺されたり、
原発近くに置き去りにされ飢死してしまった。​​​
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牛のかぶりものをした女性は何を思い、何を訴えたかったのでしょうか。​​​
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私達は人間がつくり出した悲劇を鑑賞しています。
しかし、その悲劇は現実であり、今も悲劇は続いています。​​​
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​​“I have never forget the pain”​​​​



































































































































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